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かたるヘッド

社殿 昼 社殿 夜
露 天神社(通称:お初天神)
みなさんが「お初天神」と呼んでいる神社、実は正式名称は『露 天神社(つゆのてんじんじゃ)』と言います。
では、なぜ「お初天神」なのか?
元禄16年にこの神社で実際に行った心中事件を題材に、近松門左衛門が「曽根崎心中」という人形浄瑠璃を書き、そのヒロインの名前が「お初」だったため、みんなには「お初天神」として知られるようになったんです。「曽根崎心中」の詳しい話は後で。。。
曽根崎・梅田地域の総鎮守として、今もなお崇敬を集めているお初天神は、創建以来1300年以上の歴史をもつ古~い神社なんです。昭和20年、太平洋戦争時に社殿が消失してしまったため、現在の社殿が昭和32年に建てられ、その後昭和52年、平成5年に増改築がなされています。

お初徳兵衛慰霊碑 夜のお初徳兵衛慰霊碑 ライトアップされた慰霊碑
『曽根崎心中』って?
元禄16年(1703年)4月7日、堂島新地の遊女「お初(21歳)」と醤油屋の手代「徳兵衛(25歳)」が添い遂げられないことを嘆き、露天神社の境内で心中。この事実をもとに、近松門左衛門が人形浄瑠璃の脚本「曽根崎心中」を書き、大阪の人形浄瑠璃の竹本座で上演されました。
曽根崎心中のあらすじ
遊女のお初と恋仲の徳兵衛は、叔父の醤油屋で手代として働いていました。徳兵衛の誠実な働きぶりを認めた徳兵衛の叔父は、徳兵衛を店主の姪と結婚させて店を持たせるつもりでいたのです。徳兵衛はお初がいるからと断りましたが、叔父は徳兵衛の知らない間に徳兵衛の継母に持参金まで渡して、結納を進めてしまいます。いつまでも固辞する徳兵衛に叔父は激怒し、ついには勘当を言い渡します。しかも大阪から出て行け、商売はさせない、払ったお金は7日以内に返せという厳しいことまで言われてしまいます。徳兵衛は継母から結納金は返してもらったものの、無二の友人である九平次からお金に困っていると頼まれ、3日以内に返してもらう約束で九平次にお金を貸してしまいます。。。
約束の日に徳兵衛は返済を求めますが、九平次は「そんなものは知らない」の一点張り。おまけに公衆の面前で徳兵衛を詐欺師呼ばわりまでする始末。兄弟とも思えるほど信じていた友人の裏切りに、徳兵衛には死んで自分の潔白を証明する他、手段はなかったのでした。
真夜中、お初と徳兵衛は手を取り合い、露天神の森へ行きます。お初の覚悟を確かめた徳兵衛は、お互いを連理の松の木に縛り、脇差でお初の命を奪った後、自らの命を絶つのでした。

柱に残る弾丸跡 反対側の柱の弾丸跡

実はこんなものも...

お初天神の境内、拝殿前の石柱には、太平洋戦争で大阪駅方向から飛来したP-51(グラマン戦闘機)による機銃掃射の跡が残っています。
太平洋戦争で社殿は全焼してしまったのに、残った石柱・・・この石柱は何か大切なことを私たちに語ろうとしてくれているのかもしれませんね。

~ちょっと一息~

近松門左衛門の『曽根崎心中』は大ヒット。当時、大きな話題となりました。そのため、お初天神には参詣回向の人々が大勢押しかけたそうです。
みんなの涙を誘う、悲しいこの実話をもとにしたお芝居は時代を経ても、繰り返し上演され、広く人々の心に残っています。そして今でも、お初天神には恋の成就を願う人が多く訪れています。
昭和47年、有志の人々によって、二人を慰霊するための石碑が建立されました。また、2人の300回忌の後、氏子さんの一人から「お初さんのために」と多額の寄付があり、それをきっかけに、地元の商店街などから寄付金が寄せられ、平成16年4月にブロンズ像が製作されました。

美人祈願の絵馬を飾るコーナー 絵馬をかけるとこんな感じです 絵馬掛けの受付
心根(こころね) 美人祈願

最後まで徳兵衛への愛を貫き、添い遂げたお初のように、心根の美しい『心美人』になれるよう祈願して絵馬をかけましょう。
絵馬にはみんな思い思いの顔を描くんです。心の美しさは顔にもあらわれますもんね。
一途にお初を守ってくれた徳兵衛のようなステキな人に巡り会えますように・・・
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